知る・学ぶ 安浦町の文化・歴史など

壇ノ浦敗戦後の平家に関する伝説

1 平家の埋蔵金が眠る?! 「金箱」

平家伝説この浦に平家の落人が刀や弓矢などの武器類や軍資金を隠していた所の伝承から,この地名が付いたと伝えられています。新開が築造され,金箱三宝荒神社が祭られています。
また海側の台地には「古墳群」があります。
明治初期,土砂崩れがあり,多くの人骨が露出したそうです。
付近住民が,遺骨を集め「先亡霊追善塔」を石棺の上に建立しました。

2 平家避難経路 暗号の要所 「日の浦」

平家伝説平家一門の四国へ渡る拠点として,また安徳天皇を擁した主流に合流するために,臼之浦は逃避経路の要所でした。
四国には,日之浦の地名が30ヶ所あるが,本州の瀬戸内海側にあるのは,安浦と兵庫県相生市のみです。
この地は,平家の落人が隠れ住んだ里で,付近には金箱・水無浦など伝説が多い。
また,江戸時代末期まで,当地に人が住でいることが分からなかったそうです。
日之浦とは,朝日に向かう地名をいいます。

3 源平合戦の古戦場 「三ヶ峠(さんかだお)」

平家伝説内海跡村から川尻村との村境の峠で、江戸時代の古道が今も残る。名の由来は、安登、中切、川尻の三村の境となる説、三斗俵を担いでの峠越えが1日3荷(3回)も行けない程つらい峠の説があります。
今でも邪霊を防ぐ塞の神と源平合戦の古戦場で、戦死者を供養した戦場原「千人塚」があります。
以前は道のりを示す「里程松」が5本立ち、人々の道標として親しまれていました。

4 化けたタヌキが出ると噂の 「赤子淵」

平家伝説三ヶ峠から源氏の追討軍に追われた平家軍はその途中,幼児や女たちを足手まといになるからと言って殺し,この淵に投げ込んだといわれる悲しい伝承がある所。
また,江戸時代,しばしば飢饅に見舞われた頃,貧しい農民たちの生活は苦しく,口減らしという「間引」で,かわいい赤子(赤ちゃん)をこの淵に投げ込ん だ。昔,この場所は随分淋しい所で,よくタヌキが赤子に化けて出た。また,通る人が,赤子の鳴き声がするので,かわいそうにと思い,助けてやろうと淵に行 くと,化けたタヌキが背後から淵へ落とそうとしたそうです。

5 とても悲しき物語伝説 「かたぎ峠」

平家伝説平安後期の源平合戦で,西条の国分寺や福成寺で敗れた平家落人が,内平からかたぎ峠を越えて中切に分散し隠れ住んでいました。鎌倉幕府誕生後,平家軍を追 討するため落人狩りで,中切村に入ってきました。追討軍の隊長は,村の長や役人を呼び出し,落人屋敷へ案内するよう言いつけたが,村の人惣は,平家のもの は一人もいいないと断り,知らぬ存ぜぬを言い続けました。激怒した源氏の隊長は,村の長を捕まえると,かたぎ峠の樫の木に吊し上げ,見せしめとしてたたき 殺しました。いつまでも父親の遺体にすがりついて泣き続ける幼子の姿に,村人たちの涙を誘い,源氏も落人探しをやめて去っていきました。
命を助けられた落人たちは村の長に感謝し,霊を慰めるため,樫の木の供養と,幼子の像を石の地蔵さんに彫って安置し,いつまでも供養しました。

6 多数の平家墓 「女垣内(めんごうち)の墓」

平家伝説この地で,多数の平家墓があるとされていたが,江戸初期の元和六年(1620)の大洪水で流され,現在は野積みされたものなど数少ない。
その隣地が旧大田村で,藤原景清の伝説地であり,平家軍の逃亡ルートであったと思われます。

7 平家26人絶命の地 「二十六平氏絶命の地」

平家伝説跡 条の高戸木山(たかとぎやま)と今天山(こんてんやま)の間の森を「二十六平氏の地」と呼んでいます。
源平合戦のときに,この地に隠れ住んでいた平家の二六人が,源氏軍との戦いに敗れ戦死したとの伝承があります。
また,一説によると大きな岩に隠れ潜んだ所を「二十六平石」と呼ばれる場所があります。(現在の災害砂防堰堤の上)

8 古戦場にして安浦三富士のひとつ 「飯野山」

平家伝説三津口東方にある飯野山(153.7㍍)は,三角錐(さんかくすい)の形をした小山。その姿から,「安浦三富士」の一つに数えられています。また、山を廻るように整備された子之浦農道からは、かき筏がパッチワークのように浮かぶ、絶景が眺められます。
1184年、現在の東広島市下三永では、源氏による平家追討の戦が繰り広げられました。平家の一部は安芸津町大田を経て海岸に到達、ここ飯野山辺りで合戦が行われました。破れた平家の残党は、日之浦の山中に隠れ住んだと伝えられています。
 

壇ノ浦敗戦後の平氏伝説マップ

地図は表示できませんでした。
下の大きな地図で見るをクリックしてください。